【塾をやろうとしたきっかけ】
なぜこの塾をやろうと思ったかをちょっと振り返って見ますね。その前に、一つ聞いてていただきたいことがあります。世の中には価値観型人間(女性脳的)とビジョン型人間(男性脳的)がいて、日本では前者の方が多いと聞きました。私は圧倒的に後者のようです。
❶目標主義に目覚める:中学1年生になる時、中学は小学校と違うんだ、しっかり勉強しなくちゃ、と言う刷り込みを雑誌の影響で自分でやった気がする。両親は勉強しろと言ったことはない。長男であったので、中学校がどんなところか不明で親に聞いても時代が違うので話にならない。12歳の自分が、新しい未踏の世界に入るときに用意周到になる自分がいた。
❷目標主義を貫く:中学から高校、大学、そして社会人となりあれから数十年。ずっと目標を掲げてはそれに向かって走る自分がいた。それでも挫折はある。まずは大学受験の失敗、でも立ち直る。行きたい大学には行けなかったが、米国留学の夢を果たし、入りたかった商社にも入れ、フランス留学の夢も叶えることができた。
❸人生の挫折:フランス留学という飴から帰国した後、ムチが待っていた。配属されたチームは社内精鋭を集めたプロジェクト開発専門家集団。下っ端の私にできることは雑用係。周りがみんな優秀に見え、人生で初めて無価値観を感じたのだった。この時こそ、人生における目標を見失った感があった。時に28歳。今振り返れば、変なプライドも捨てて、もっと雑用係に徹すれば良いだけの年齢ではないか。にもかかわらず、深く迷い、悩んだ。転職も考えた。その期間、6ヶ月。会社を辞めずに6ヶ月で済んだのだ。そう、プロジェクトそのものが外的要因で崩壊し、チームが解散となって、私はフランス留学のおかげか、別部署からお声がかかり異動することとなり、無価値観の悩みは胡散霧消した。
❹無価値観の根源は貢献感の欠如:無価値観の根源は、自分が周りの役に立ってないという思い込みだった気がする。雑用係のプロになればよかったのにと今では思う。しかし、この6ヶ月の無価値観の体験のおかげで、後に、人生に悩み迷う人々を放っておけないと自覚するに至った。
❺ある生涯教育との出会い:48歳の時、キャンパスを散歩中にこの教えにまさに偶然出会う。道徳をベースとした生き方哲学だった。初めて教えや書籍を見た時、「光」を見出した気がした。これが私がずっと探していたものだ、という感覚だった。この頃から、すでに仕事は順風満帆で立ち上げるプロジェクトはほぼ皆実現しつつあった。仕事に充実感を感じつつ、それでも「この1回の人生で本当に自分は何をやりたいのか?」、目の前の仕事よりもう一段上のレベルで「この世でどうしてもやりたいことは何か?」を問い続け、自己開発セミナーやコーチングセミナーなど受講した。多くの書を読んだ。人にも出会った。
❻道を追い求めて10年:10年近く問うたことになろうか。そうして確信した。
私が生まれてきた理由は、「夢や希望が持てない人々に対して、ミッション発見のお手伝いや私たちは生きているというより実は生かされていることを伝えること」。中でも「伝えること」がミッションであり、ミッションを支える先天的強みは「運命思考」(この世はみなつながって生かされているという確信)と「成長促進」(人が成長するのが自分の喜び)であると。そのために、まずは小さくてもいい、塾を開くという行動を起こすことである。
❼振り返った時の線:今になって思えば、中学生から語学に興味を持つことになり、後に異文化諸国に住むことになり、生き方の生涯教育に出会い、システム思考や氷山モデルと出会い衝撃を受け、多くの外国人との接点から受けた刺激の数々。多くの異なる点ではあるが、結んだ線が意味するものとは何か?それは「価値観の異なる多くの人に、いかに教えを伝えるか」を身につけるための歩みだった気がする。
まとめ:自分のこの無価値観と目標喪失の体験こそが、社会において自己肯定感が低い人や、自分探しをしている人や、天職は何か探している人に意識が向いてしまう理由です。そしてこのような「放っておけない人々」をサポートする手段の一つが、私が学ぶ生涯教育ということです。手段は他にもありますが、東洋・西洋の手段を使いつつ、学び舎で何人かの人々と一緒に、感動したり、泣いたり、笑ったりしながら本当の自分を見つける旅を一緒にして見たい、共に元気を分かち合いたい、そんな想いでこの塾を創りました。